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御祭神菅原道真公



道真公の御事歴

   道真公年表 天神信仰

 道真公は天穂日命の末、野見宿禰を祖とし、御父は菅原是善公、御母伴氏は神代以来の名門大伴家の出であります。承和十二年(845)御誕生になり、五才の時、庭前の梅花を見て、和歌を詠じ、十一才にして「月夜見梅花」の詩を作られました。
三十三才で文章博士となり、四十二才の時讃岐守として四国に赴任、農耕・畜産に尽力されました。その政治力を認められて宇多天皇の信任を得、しだいに重用されて、位階も昇進の一途をたどり、寛平九年(897)に醍醐天皇が即位されましたが、道真公はいよいよ信任あつく、昌泰二年(899)、左大臣藤原時平と並んで右大臣兼右近衛大将に任ぜられ(御歳五十五歳)、ついで同四年正月には従二位に叙せられるに至りました。しかし、時平の中傷によって太宰権帥に左遷されました。
配所での道真公は、門を閉ざして出でず、ひたすら謹慎の意を表されておりましたが、延喜三年(903)二月二十五日、ついに薨去されました。御年五十九歳。配所でお詠みになった「去年今夜侍清涼」の詩は、とくに広く愛誦されています。
道真公は、以上記したように、たいへん詩文に長じたお方でありました。御著の詩文集に「菅家文草」「菅家後集」があるほか、「三代実録」「類聚国史」「新撰万葉集」などの編著にも当たられております。世に菅公・菅丞相とも呼ばれ、後世、学問の神さまといえば道真公をさすようになりました。

天神さまと梅
天神さまは五歳の時、梅の花を見て

   うつくしや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある

と和歌をよまれ、太宰府に行かれる時、自宅の紅梅殿でよまれた

   東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ

の名歌の中の梅の木が道真公を慕って一夜のうちに太宰府に飛来したと伝えられる”飛梅伝説”(とびうめでんせつ)など 道真公と梅にまつわる話が多く残っています。
加賀の前田侯は大の菅公ファンで家系を菅原姓に結びつけ家紋を梅鉢とし 特に加賀梅鉢と呼ばれています。
当神社の神紋も加賀梅鉢となっています。

天神さまと牛
撫で牛
撫で牛(手水舎横)
天神信仰の中でも、天神さまと牛とは切っても切れないものがあり、古くより様々な縁起・伝承を見ることが出来ます。
道真公は承和十二年六月二十五日乙丑の年に、ご生誕になり、延喜三年二月二十五日の丑の日に薨ぜられ、また「菅家聖廟略伝」には、菅公自ら遺言をされ、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」とあり、その牛は、黙々と東に歩いて安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこを御墓所と定めた、と書かれています。
ほかにも、天神さまと牛との関わりについて数多く見られ、道真公がいかに深く牛を慈しんでいたかも窺われます。
このようなことから当神社の境内には石造りの臥牛があり、牛の角をなでていく方、手を合わせていく方、鼻が悪いといって鼻をなで、足が悪いのでと足をなでていく方、・・・・・と多くの方々から「撫でうし」として信仰されています。

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